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印西牧の原の歴史〜ニュータウン開発前、印西に飛行場があった!〜

2017-10-18

 現在、北総線印西牧の原駅 周辺はまさに住宅の建設ラッシュ。下総台地に広がるこのあたりは、遠く北に筑波山、西に富士山を見渡す平らな土地です。 いったいどんな歴史を秘めているのでしょうか。

 「牧の原」という地名に残っているように、江戸時代初期、このあたり(現松戸市東部〜白井市、印西市)は、幕府の牧でした。野生の馬も生息していたとか。またその頃、印旛沼から水が入り込む谷地の特性を活かした新田開発の願いが出され、1676(延宝4)年、惣深(そうふけ)新田村が成立。原生地の開発に邁進(まいしん)し、新田願いの契約に背くことのないように、と12人の者が誓詞(せいし)を交わした場所(大日塚)に石碑があり、草深(そうふけ)の森にひっそりと佇んでいます。約340年前の人々の覚悟の証です。松戸や流山から約500人が移り住んだと記録にあります。
 また、印旛沼周辺の水田地帯は、当時から常に水害に見舞われ、利根川から東京湾へ水を流す灌水(かんすい)工事を江戸時代から行ってきた歴史があります。

 1942(昭和17)年、現在の印西牧の原駅周辺に逓信省(ていしんしょう)印旛地方航空機乗員養成所(印旛飛行場)が造られました。民間のパイロット養成所で、当時全国で15カ所ほど存在したうちのひとつ。太平洋戦争の戦況悪化で1944(昭和19)年に旧陸軍航空基地と兼用になり、首都防衛のため陸軍飛行第23戦隊として一式戦闘機「隼(はやぶさ)」約20機に続いて二式単座戦闘機「鐘馗(しょうき)」が配備され、硫黄島や北九州にも派遣されました。なかでも特攻隊員としてレイテ島で戦死した長濱清氏(当時19歳。没後、陸軍少尉)は地元の英雄として妙光院に祀られています。

 約240万㎡の敷地には約 2㎞の滑走路が3本のびていました。基地には格納庫が1、2機分しかなく、多くはU字やV字の土手内に戦闘機を格納した「掩体壕(えんたいごう)」でした。無蓋型で、上部を木や葉で覆い隠したようです。このような掩体壕は1982(昭和57)年には36基が残っていましたが、現在は1基のみ保存されています。昨年、印西市の史跡に指定され、見学することができます。

 終戦時は約120機の戦闘機を焼却。木下在住で当時小学生だったという男性は、「勤労奉仕として飛行場の草刈りを行い、その当時貴重だった角砂糖やビスケットを頂いたことを覚えている」と話してくれました。
 戦後、印旛飛行場は解体され、戦地除隊者や満州引揚者などが入植し開拓が行われました。 現在の国道464号線の南に並行に走る二車線道路の南側は、斜めにいくつもの側道が連結していますが、開拓時の畑区画の名残りです。
 しかし、江戸時代 の新田開発と同じく台地は痩せた土 地で、開拓者達は大変苦労しました。1971(昭和48)年に建立された「開拓記念之碑」にその歴史が刻まれています。

 1949(昭和24)年には印旛少年院が開庁。広い施設内で飛行場の指揮棟も使用し、野球場やプール、体育館もあり、昭和60年閉庁になるまで使われました。草深に育った男性は、「小学生の頃、年に一回施設開放日があって、立派な体育館に入るのが楽しみだった。怖いと思ったことはなかったな(笑)。」と、思い出を話してくれました。
 1967(昭和42)年に国からニュータウン予定地に指定され、それから50年を経た現在、成田空港へ鉄道開通が実現し、次は自動車道路の開通を待ち望んでいるところ。この地には、二度の開拓による苦労とパイロットへの夢や憧れ、戦争の悲惨さ、そして非行少年達に向き合ってきた歴史があるのです。(H)

取材協力:印西ふるさと案内人協会
問合せ:☎0476-97-2830(西田)

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